雨がパラつく梅雨の時期、6月20日に私は台湾人の母と日本人の父の間に産まれました。
そんな私は物心つく前から歌うことが大好きでした。昔、おばあちゃんは台湾で歌手活動をしてい
た。そしておじさんはシンガーソングライターを目指して音楽活動をしていた。母は洋楽が大好き
で家にはいつも洋楽、世界の歌姫達の歌がかかっていた。こうして私は自然と音楽が大好きな一
家で育った。私が歌手になりたいということを、誰一人反対する人はいなかった。
初めてオーディションに受けたのは6歳。結果は合格だった。だけどレッスン費用がかかるとのこと
だ。経済的にそんなに豊かではなかった。母がごめんねと悔しそうにしていた事を覚えている。
小学校低学年の私の性格は内気で大人しくてお友達も数えるほどしかいなかった。大親友が学
校を休めば私はクラスでひとりぼっち。ある日突然、その大親友が転校することになった。私はとて
も悲しくて涙がとまらなかった。だけど、そのお別れが私を変えたきっかけとなった。
それ以降私は人はどうしたら私に興味をもってくれるのか、どうしたら私という存在を知ってもらえる
のか考えた。クラスで目立つ子と仲良くなったり、男女問わず色んなこと遊んでみたり、指揮者をし
たり委員会の委員長になってみたり修学旅行の班長をやってみたり。目立ちそうなことはなんでも
やった。次第に友達がいなかった私の周りにはたくさんのお友達が増えていった。そんな小学校
生活と平行に私の音楽生活にも大きな波がやってきた。毎年母親が里帰りする台湾にいったとき
です。その時私は11歳。台湾でたまたま歌や踊りのイベントがやっていた。観客は300人はいた
かと。お客だった私がなんと急遽出演することになった。私があまりに夢中になっていたからでしょ
うか、おばあちゃんとお母さんは主催者に言って私を特別だしてもらうことになったのです。私はい
つもおばあちゃんに歌を聞かせるため、CDを持っていましたが、恥ずかしくて恥ずかしくてあんな
大勢いの前で歌うことが怖くて、いやいや360度の丸い舞台にあがり、歌いました。当時歌った曲
はKOKIAさんのthe power of smileでした。私はその時初めて手を広げて歌い我を忘れるくら
い楽しく歌えました。歌い終わると聞いたことがない大きな拍手に戸惑いながらも、歌う楽しさを
もっと知ることができました。私が歌うとみんなが笑顔になってくれるんだと実感していた。
その後12歳の時には某エキストラ事務所に所属していた。人見知りでお友達もいなくてひとりじゃ
何も出来なかった私が一人で東京まで行って歌や演技のレッスンを必死で受けた。
小学校を卒業すると中学校では強かった吹奏楽部に入部した。運動は出来るほうだった。でも
やっぱり音楽がすきだった。吹奏楽ではSAXを担当した。勉強と部活、忙しさのあまり私はレッス
ンに通うことが出来なくなっていた。次第にSAXに没頭した3年間となる。進路は家の事情で引っ
越すこととなったので引越し先での家から近い高校を受けた。いちからお友達の作り直しだが私
はまったく怖くなかった。昔に経験していたから。高校入ってからはいままで真面目に頑張ってき
た私は色んな新しいものに触れてお洒落や遊ぶことにはまっていた。いわゆる生意気な高校生
だった。授業をサボって友達と遊んだり、テストは寝るから成績は悪かったし、頭髪に引っかかって
帰らされると、他校の友達の家にいって遊んだり、バイト後は真っ直ぐ家に帰らなかったり。。。。こ
んな自分が嫌いだった。でも歌だけはちゃんとやっていた。歌を歌っているときだけ生きている感
じだった。ここにいる歌声が私なんだと実感できていた。歌が歌うのが好きだったから、友達の前
で歌うとたちまち「夕希の歌声は神」と広まっていった。正直嬉しかった。歌ってみんなが喜ぶ顔を
みることが。私はどうしたら歌手になれるか自分で考えるようになっていった。今までは親が受けて
みなというオーディションに受けていた。17歳、高校3年生のとき進路を音楽の専門学校に決めた
のと同時に私は色々なオーディションに受けた。数々のオーディションに受かるもののメジャーま
では行き着かなかった。そして専門に入学した18歳。今までの人生で一番大きいチャンスと出会
う。某オーディションに応募して2000人の5人に選ばれた。そして、かの有名なG irls Awardに出
演して1万5000人を目の前にしてワンコーラス歌いきりました。結果はグランプリになれず。
悔しくて悔しくて、涙が止まらなかった。私の経験不足、練習不足、それ以前に観客の多さに圧倒
されて上手く演技が出来なかったくやしさ。メジャーデビューを目の前にして逃してしまった。
それ以降も何度も声をかけられた。が上手くは進まなかった。
ある日学内オーディションで通過し、学校代表でビクター主催のオーディションに出場した。
投票製でおしくも2位となってしまった。そこで出会ったある事務所の会社の人に声をかけられて、
私は10代のうちのデビューを約束されたはずだった。大きな事務所でしたが。。。学校生活をして
いるだけで、その会社の担当者はやるといったことがやらず終いでなくなることが多く、結局私は
学校卒業となった。21歳のときやっと動きが見えた。「配信限定で曲をだそう」という話だ。
もちろんやる気だった。遅かったが20歳で作詞作曲を始めたわたしがオリジナル曲で配信が出来
るなんて夢のような話だった。曲もちゃんといい仕上がりになり、レコーディングも終えていざ配
信!!。。。配信されただけでなにもなかった。私もなにをすればいいのか分からなかった。ライブ
などして歌っていたが。それだけで広まることはなかった。
またこれ以降なにもなくて不安な日々が曲をかきながら続くだけだった。親からは何をしたいか怒
られ、親戚たちも、もう無理だろうと皆諦めてしまっていた。ただただ悔しかった。
そして23歳、転機はおとずれた。インストアライブでCDをだそうという話だった。もちろんオリジナ
ル曲でだしてもらった。だけどこなしたインストアライブは三回。。CDはなかなか売れなかった。
毎月ミニワンマンをやらせてもらったけどスタッフぬいて、きてくれるお客様が一人のときもあった。
ライブをしたり路上ライブをしたり嬉しいこともたくさんあったけど、正直つらかった。
どうすればいいのか分からなかった。どうやったら私をしってもらえるのか分からなかった。
なによりも私は事務所の私に対しての愛を感じることがどうも出来なかった。入りたかった事務所に
は入れてもらえず私はずっとインディーズを転々としていたから。。。10代のうちにデビュー出来な
かったあの時点で関係をやめたらよかったのか。。。もうなにもかもが分からなくなってしまっていた。
そして24歳、私はインディーズ事務所をやめた。引き止められることもなかった。そしてせっかく関
わってくれたのになにも結果が出せなかったこともとても悔しかった。その時、春だった。
そして新たに一歩踏み出そうと。 歌に関してだけはなにがあってもやめたくない。夢は夢だとおも
いたくない。
新しいスタートのため。新しい歌を探すため。そして新しい愛のある環境にいくため。
自分の足で切り開いていこう。 最後まで諦めたくない。
そんな強い思いをもって今回のオーディションに挑みました。